バンドの歴史
バンドの歴史というよりも、臼田が産まれてから、バンドが出来るまでのくだらない歴史を紐解く。
第1話:サンタとの別れとラッパとの出会い。
1981年、ピンクレディーの解散、ルビーの指輪、Dr.スランプアラレちゃんの大ヒット、千代の富士の横綱昇進のこの年に、臼田が産まれる。この時点で臼田と井田君はお互いに母親におんぶされながら出会う。
1985年、臼田と井田君は一緒に幼稚園に入園、雨の日には井田君に新幹線を描いてと良く言われ、今は無き200系の絵を描いていた。ある日「新幹線の中身も描いて」と言われ、幼児ながらに「そんなもん書けるか!!!」って思ったことを今でも覚えている。
1988年、臼田と井田君はまたも一緒に小学校に入学、井田君家に遊びに行った時に、みんなは公園のフェンスに登って近道をして、臼田はフェンスに登れず、そのまま迷子になり、井田君のお母さんが迎えに来てくれた。この年、わりと近所でおりもちゃん産まれるけど出会うのはまだまだ先のお話。
1992年、臼田と井田君は鼓笛隊に入り、二人ともトランペット1を任される。オブラディオブラダを沢山吹いた。よく井田君が臼田のトランペットを磨いてくれた。当時隣の高校のトランペットの音に対抗して高校に向かってトランペットを吹いて先生に怒られたりもした。まさかその時の相手高校の部活に入部することになるとはこのとき知る良しもなし。
ちなみに、小学校4年生の時にサンタさんに頼んだものがトランペット。12/23に父親が持っているのをみて、「あぁサンタさんは本当にいないのか。」と悲しくも自覚し、大人の階段を一つ登った。
1994年、臼田と井田君はついに中学が別に、井田君は吹奏楽部に入ったのに、臼田は男子部員がいないという理由で卓球部に入部。さよならトランペットと井田君。
つづく。
第2話:BIG BAND JAZZは突然に。
1997年、中学校で吹奏楽部をやらなかった後悔もあり、高校でトランペットを吹くことを決意、兄の所属する吹奏楽部か、兄に「おまえに合う!」と言われたビッグバンドジャズ部?(なんだそりゃ!!)という2つの部活で悩んでいたところ、部活紹介での「突然ですが後ろを向いてください!!」からのIn The Moodの演奏に心を撃ち抜かれ、ここでBIG BAND JAZZと出会う。
部長を務めたものの、先輩が全てやめてしまい、部員は11人。徳川慶喜に親近感を持ちながらも大政奉還の道は選ばず、新入生歓迎に力を入れ立て直しをはかったところ、「男子のみに狙いをつけろ!!」という作戦がはまったのか、20人以上の新入部員を獲得。しかし締切が過ぎたあたりでサックスをやりたいという男の子が相談に来た。もう楽器もないからと当然のように断ったところ、兄に「楽器を探して努力した結果なのか!」と叱られ、反省し、なんとか古いアルトサックスを確保、男の子の入部が決まった。なんとその男の子がさっちゃん。
高校3年間はカウントベイシーを愛しながら、先輩もいないのでずっとリードラッパで主旋律しか吹けず、チューニングはどうせ合わないからやらなくて良い、ロングトーンと言いながら4拍しか行わないという愚行を繰り返し、実のない練習を繰り返し上達せず。音だけは大きくて、吹奏楽部のトランペットの先輩からはご機嫌なラッパと言われていた。
高校1年生の時に見に行ったYAMANO BIG BAND JAZZ CONTESTでの大阪大学のハッピをバッキングに合わせて脱ぐという斬新なステージにまたも心を奪われ、ステージは魅せる為にあることを学ぶ。
1999年、運よくYAMANO BIG BAND JAZZ CONTESTの30周年記念イベントに招待され、憧れのステージでDANCING MENを若さのみで演奏し、司会の角田健一さんに一応お世辞の褒め言葉をいただく。
高校を卒業し大学へ。 つづく。
第3話:結局は山野。
2000年に大学入学。ビッグバンドはカウントベイシーを愛していた為、M大BS入ろうと決めていたが、大学が落ち着くまではやめておこうと普通の大学生活を送っていたところ、BSのマネージャーのすぐるさんという人からいきなり電話、久光からおまえのことを聞いたから一度見学に来いといわれ、見学に行く。
この時まさかスーパー高校生が来る!と言われていたことは知るよしもなく、音を出した瞬間に先輩方の落胆した顔、ジュニアバンドのコンマスからの「今日は調子悪いのかな?」という残酷な優しさをいただく。当時は、「はい!今日は受験明けで調子悪いです!」と答えたものの、あれから18年たった今も調子は戻っていない。
とりあえず、入部し新歓で鍋を突く。目の前に座ったのが、ノッチ。そして練習ではベースを始めたばかりの足立、ピアノの平沼、テナーサックスの長妻、バリトンサックスの高田と出会う。
高校時代に養ったスウィング感のみのアドバンテージと、バンドの若手を育てようという方針のおかげでなんとかレギュラーに昇格、ただし高校時代の愚行のおかげで、練習を始める前のチューニングで「なんでこんな基本的なことが出来ないんだ!!」と死ぬほど怒られる毎日。そりゃそうだよね、全国優勝目指すバンドのレギュラーにこんなのいたら大変だわ。当時暫定の3番Tpをつとめていたが、とある演奏本番終了後、リードラッパにペットボトルを投げつけられる。理由は「なんで俺と同じ音吹いてんだよ!!!」。高校時代主旋律しか吹いたことがないから、リードの音に引っ張られ、緊張のあまり3番ラッパの指でリードの音を吹いていたらしい。やばいよね。よく可愛がってくれたものだわ、先輩方。セク練では先輩方にボコボコにされるけど、全練になるとしっかり守ってくれたので、どんなに怒られても忠誠心は失わず。
当時、レギュラーは雲の上にいるものだから、ジュニアバンドの同級生はきっと「オーデションかけてレギュラーになる!」なんて思ってもいなかったみたいだけど、臼田の実力が大したことないということがバレてからは皆がレギューラーへのオーディションを受け始めたように思う。つまり、レギュラーとジュニアの垣根を取っ払ったのは臼田だ!!
とりあえず楽器は「小学生より下手だ!」と言われ、納得する毎日で、なんとか機嫌良く練習していただこうと場をなごます為に沢山笑いは取るように頑張った。当時他校から来ていた先輩に、「うちの大学にも臼田みたいによく喋るトロンボーン吹きがいるよ」と言われたことがある。そのトロンボーン吹きこそあのテレビでおなじみのハマケンであったことが後に判明。
臼田というお荷物を抱えながら、先輩たちの頑張りにより、バンドはあこがれのYAMANO BIG BAND JAZZ CONTESTに見事優勝。本当はそこはリードを支えるところだろ!というユニゾン部分はピッチの悪さからクビという、今考えても本当に力になれず申し訳ない思い。ただ、コンテストのビデオをみると、なんとそのユニゾン部分がアップで抜かれており、「え?俺吹いてたっけ?」と自分でも勘違いするくらいの見事な演奏のマネっぷり。綺麗なユニゾンは1人で吹いてるように聞こえると言うけど、確かにこの顔芸であればそう聞こえたはず。
まったくの他力で優勝を経験したとはいえ、この後の人生でこの「優勝」がどんだけ役に立ったことか。元日本代表、元金メダリスト、元甲子園優勝メンバー、規模は違えど、「結局は「山野で最優秀賞」というのが良かったですよね」と後輩からも言われる始末、でも本当に心からそう思う。
その後、大学のカリキュラムが突然変更になり、時間的に練習に通えないことが判明。こんな下手なのに練習も出られないとかマジでやばいので、バンドをやめることに。そして楽しい鵜原海水浴場への打ち上げ旅行。しかし、そこにはノッチの姿はなく...。(臼田がやめたことによりレギュラーに昇格したノッチは精神的に追い詰められていて海どころじゃなかったという事実をついこないだ知った。ごめんねノッチ)
つづく
第4話:同級生って最高!!
BSを辞めてからもBIG BAND JAZZをやりたかった臼田は大学でBIG BAND JAZZ同好会を立ち上げる。年配の先生は絶対にジャズが好きだから一度聴いてもらえば絶対に好きになってくれる!という作戦が見事に的中し、一気に部室の割り当てと、部への昇格を果たす。この時にはさっちゃんやたくちゃんとか手伝いに来てくれたな。当時、部長は兄だったので、さっちゃんと兄はここではじめて一緒にサックスを吹くことになり、ちょっとした運命を感じた。ちなみにこの時に入部してくれた1期生がまいまい。
また箱面を買うお金も無いので自作をしようと、BSのスタジオに寸法を計りに行った時、せっかくだからとセクション部屋でラッパを吹いていると、「臼田さんの音ってKさんの音に似てますよね」(Kさんは当時臼田が迷惑かけまくったリードラッパの先輩)という、有り得ないお世辞なのか皮肉なのかわからない言葉をかけたレギュラートランペットの女子。「なに言ってんの、この人めっちゃ怖いよぉー」と思ったのが、今じゃとってもかわいいミオちゃんとの初コンタクト。今考えてもあの嘘はなんだったのかわからん。
そして同時期にBS出身の有志達を同級生でトロンボーンのノボル君が、ノボルバンドを結成、まだ規模の小さい大学のバンドと合同合宿をしてくれた。ここで、臼田は久しぶりとの同級生との合宿が嬉しくて、「同級生がいるって最高だわ!!」と連呼しながら飲み続けた挙句、全然知らない別のグループで花火をやっていたらしい。同級生とか関係ないじゃん!!
つづく
第5話:そして結成へ・・・。
臼田が大学でBIG BAND JAZZ部を立ち上げている頃、M大BSは当時としては史上初の山野4連覇を達成する。臼田がマウスピースの吹き方を教えてあげた野球部出身の同級生が、臼田の果たせなかった山野でリードラッパで優勝という偉業を達成、のっちや足立やたくちゃんや平沼とか高田とか、同級生の活躍が眩しすぎて、山野のコンテストは自分が出場してから一回も行ったことがない。そしてみんなは4年生大学なので卒業。ここで学生バンドあるあるで、だいたい実力あるメンバーが卒業とともに社会人バンドを組み、そして自分が絶対の天下だったF年から、一番下っ端の新社会人となり、自由が利かなくなり、バンド自然消滅、というのをたどる。ここでも例に漏れず、こんな楽器のうまいやつらをただの社会人になるものか!と、まだ6年制大学で卒業していなかった臼田が、メンバーが足りなくなって解散しようとしていたノボルバンドを吸収する形で社会人バンドを結成する。当時臼田は、大学での部活立ち上げと、地域への働きかけから、まだまだ学バンがひしめく東京じゃなければBIG BAND JAZZは需要があると確信をもっていた。そして、通常の社会人バンドのように、定期演奏会で難しい演奏をして、かつてのバンド仲間に見に来てもらうという、絶対に現役大学生には勝てないような活動内容ではなくて、社会人ならではのツテを利用して、イベントなどでの演奏依頼を受け、一般の方に喜んでもらえる演奏をする!というコンセプトで2004年春、「WAY-OUT TOKYO BIG BAND」を結成した。第5話目にしてやっと、バンドが発足したのだった。
つづく。
外伝1:いざ初陣!
まず、バンドの初舞台は稲毛海岸のマリンピアで行われたサマージャズフェスティバル。マリンピアにある島村楽器さんには大学時代からとても良くしていただき、こちらで企画したジャズフェスティバルというイベントのスポンサーにまでなっていただいた。そして、なんと優勝商品で譜面台10 本まで準備してくれ、みごと僅差で1位を獲得し、今でも大切に使わせていただいている。うちのバンドが唯一参加した大会だから、大切な思い出であり、とてもとても大切な「優勝」という経歴(笑)。
外伝2:のっちのMy Favorite Things
メンバー構成も落ち着いてきた、確か2013年。たまにはしっかり練習してみようと、冬休みに千葉で合宿を企画してみた。これが最初で最後の合宿。合宿中、ほぼ90%の時間を割いたMy Favorite Thingsは、合宿から帰ってからの練習でもあまりにも難しすぎるとの理由で延期という名のボツになることが決定、結局合宿の意味が全く無くなったという結末に。合宿の思い出は美味しい魚介類を食べたことと、まだ発足間もなかったAKB48のドキュメンタリーを色々といちゃもんをつけながらみんなで観て、AKB大ファンののっちがキレながらAKBの魅力を説明していたことくらいか。(おかげでみんなちょっとだけAKB好きになったよね)ちなみに延期になったMy Favorite Thingsはそろそろ10年くらいになるけど、まだ延期中。あと10年くらい経ったらもう一回合宿ってのもやってみたいなぁ。
外伝3:ありのままのオナンさん
2013年にはじめてのオナンさんとのステージ。はじめてのBIG BANDとの共演で、少々緊張気味のオナンさん。いつもの結婚式のように、おしゃれで、ちょっぴり下ネタな感じでお願いしますと伝えたものの、なんと最前列にあどけない高校生の集団が陣取るという予想外の出来事で、オナンさんも困惑。しかも、会場のバーテンダーさんがなんと大学時代の同級生と発覚!!ハプニングだらけだったけど、そこは場数を踏んでいるオナンさん、しっかり盛り上げてくれて楽しいLIVEとなりました。また出演してくれると言ってくれて、2017年にもう一度共演し、アナ雪のLet it goに乗せて、ありのままの姿を披露することができました。いま、次の企画も考え中です。
外伝4:JAZZ PHANTOM
もともとはカウントベイシーをこよなく愛する、純粋なジャズバンドだったはず。だけど、もう高校生からずっとやっているから、時々ちょっと飽きちゃって、臼田は時々おかしな企画を持ち込む。けれど、やっぱりバンドメンバーには純粋なジャズマンが多いから、少し困惑した顔をされちゃう。
ある日、B’zに声がめっちゃ似ている仕事仲間がいて、それをどうしてもみんなに聞かせたくて、数万円のお金をかけてB’zの曲のBIG BAND譜面を作ってもらうという企画を提案、メンバーに怒られると思いきや、一番お硬いリズムセクションがノリノリで、平沼なんかLove Phantomの前奏をすでに弾き始める始末。初めての練習の時の我らのテンションの上がりっぷりと、対バンしたときにリハでも内緒にして本番でブッ込んだ時の、対バン相手の驚きと、爆笑と、「ずるいわ〜」という感想は本当に嬉しかった。
第6話:導かれし者たち
2018年に選曲会議を行うも、全く決まらず、というか誰も候補も出さなけりゃ、投票もしない。ただただ楽しく騒ぐのみ。この日を境に、あぁ、うちの演奏曲はやっぱり全部リーダーが決めてしまって良いんだ。ということが改めて確定した。
社会人バンドが解散の危機に陥ると言われる、メンバーの結婚による自由度の減少、出産による自由の消滅、という2つの荒波を概ね乗り越えることが出来たみたいなので、次の荒波までは少しだけ安定しそう。震災直後の女川での復興演奏や、病院演奏での患者さんからの喝采など、色々な大切な経験をメンバーとともにして参りました。学生時代に蓄積した演奏技術の貯金はどんどん目減りしていく一方だけど、最近は練習だけでも楽しくて、このまま死ぬまでバンドが続けば良いなーって思う毎日です。
今後も応援よろしくお願いいたします。